※ この物語はフィクションです。

天神のオフィスで、肩こりと通知音と未読メールは、誰にとっても珍しくない。だからストレスゾーンは派手に襲わない。いつもの疲れの形を借りて、体の内側からブレーキを踏ませる。

リモコンの電池が現場に残されてから、三週間が過ぎた。福岡タワーの足元では、また観光客が写真を撮っている。警察の知人は、あの夜を「集団ヒステリー」と片付けたが、りょうたは電池の型番だけを手帳に書いておいた。型番は、市販のテレビ用だった。

産業医の報告書が、非公式に回ってきた。市内のオフィス三棟で、同じ午後に「業務不能」が集中している。診断名はつかない。つくとすれば、過労だ。過労は事件にならない。事件にならない場所に、相手は種を撒く。

りょうたは四つの折れ方を表にした。ダンス、波、線、台。全部、本人がいちばん頼っているものが、先に折れている。ランダムではない。観察がある。観察があるなら、観察者は近い。

事件は終わったように見えた。終わったように見える事件ほど、続きがある。

紫色の雲

最初に空を見たのは、ふかまっくすだった。納期を抱えて天神の交差点に立ったとき、紫がかった雲が、ネクタイを締めて街の上に座っていた。雲の腹には、未読メールの数字が稲妻になって落ちている。彼はデザイナーだ。形のないものに名前を付ける癖がある。その雲を、後にストレスゾーンと呼ぶ。

同じ時刻、オフィス街の通報が相次いだ。キーボードの連打が途中で止まる。デスクに額をつけたまま動かない。外傷はない。血液検査も、いまのところ異常はない。ただ、人々の内側の時計が、一気に早送りされている。

「人々を過度なストレスでダウンさせる」

雲は、そう言ったように聞こえた。聞こえた、という点がまた、りょうたを悩ませる。物理的な声なのか。街が同じ考えを共有し始めたのか。

折れ方は、人それぞれだった

たえはスタジオで、いつものステップを踏もうとして、爪先が床に貼りついた。音楽は流れている。体だけが、先に疲れを知っていた。けんたは海へ出た。波はあった。ボードだけが足から滑り落ちる。ふかまっくすの画面は白い。カーソルだけが点滅する。ゆうすけは台の前で、連敗の音だけを聞いていた。

りょうたは四人をジムに集めた。グローブをはめ直す指が、わずかに震えていた。かつての深夜、誰もいないフロアでエラーログだけがスクロールしていた記憶が、まぶたの裏に重なる。あのときは、誰の拳も隣になかった。

「まず休める場所を作る。殴るのは、そのあとだ」

ふかまっくすが眼鏡を直した。雲の模様は、締切のグラフに似ている。似ていることは、偶然ではないと、りょうたは思った。誰かが、福岡の働き方を知っている。

一番の力

雨が窓を叩いた。りょうたは、孤独な画面の前で自分が小さくなっていた夜を、はっきりと思い出した。今は違う。たえの呼吸、けんたの湿った髪、ふかまっくすの眼鏡、ゆうすけの拳。四つが、ここに揃っている。

「仲間との絆が、一番の力だ」

言葉は、雨音より先に部屋を満たした。疲れは消えない。向き合う方向だけが、同じになった。

雲の下へ、五人は駆けた。たえのダンスが雨をリズムに変え、けんたのボードが水たまりから波を起こす。ふかまっくすは光の輪で雲の裾を縛り、ゆうすけのキックが稲妻の筋を折った。りょうたは踏み込む。拳に、四人の熱が乗った。

「友情のITパワーパンチ」

雲が裂け、ネクタイがほどける。空に、二つの虹が並んだ。オフィスの窓が開き、誰かが深呼吸をした。電池は、今度も現場に残されていた。型番は、前回と同じだった。

りょうたは手帳を開いた。同じ電池。同じリモコンの系統。キライダーは、消えたのではない。道具を変えただけだ、と彼は書いた。書いた瞬間、その仮説は、まだ仮説にすぎなかった。

同じ型番

虹が消えたあとの天神は、ただ混んでいた。りょうたは雲の下に残った焦げ跡を、写真に撮らなかった。撮ると、誰かが「特殊効果」と言う。言われた瞬間、観察は終わる。終わらせないために、彼は手帳だけを開いた。

電池の型番は、第1話の現場で見たものと一致する。一致は、安心ではない。相手が新しい道具を持っていない、という事実だ。持っていない者は、同じ手を繰り返す。繰り返す手は、読める。読める手を見逃さなければ、次に間に合う。

たえはスタジオに戻り、音楽を最初からかけ直した。爪先は、もう床に貼りつかない。けんたはボードを拭き、ふかまっくすは白い画面に一本だけ線を引いた。ゆうすけは台に座らず、店の外で蹴りの回数を数えた。折れたものが、戻る。戻ることが、解決の全部ではない。

二つの虹より長く残ったのは、深呼吸を思い出した誰かの背中だった。解決は勝利の音ではなく、窓を開ける小さな音として戻ってきた。

りょうたは夜、サンドバッグを三十本叩いてから電気を消した。消したあとに残るのは、同じ型番と、観察者が近いという仮説だ。近い観察者は、まだ名前を持たない。名前を持たない相手を、急いで名指ししない。名指しは、見誤りを固定する。

未解決記録

ストレス被害の報告書にも、同じ白い点が写り込んでいた。発生時刻ではなく、人が『今日はもう無理だ』と思った時刻だけが記録されている。